国際交流の旗手 A

私の国際交流経験

坂田直三(1958年卒業)
1.はじめに
  仕事人生を40年とすれば、私の仕事人生の前半は貿易商社で輸出業務に従事し、後半は帰国子女受け入れ校で教育に従事するものであった。輸出業務は海外の顧客相手の仕事であり、また、帰国子女教育は海外勤務者を保護者とする生徒に対する教育であるので、いずれも国際的な視野を必要とする仕事であった。貿易商社勤務時代、私は、駐在員として、出張員として多くの国に赴き、いろいろなことを見聞した。外国と初めて関わった時、異文化に驚いたが、外国の人たちとの交わりを深めて行く中で、「人は全て同じであり、また異なっている」ことを身にしみて感じた。多くの経験をしたこと、そして経験した全てが新鮮であったことなどから、私はこの時代を私の仕事人生における青春時代と呼んでいる。
  仕事人生の後半は、帰国子女受け入れ校で教育に携わる19年間であった。貿易商社から学校への転職は大きな変化だが、貿易も教育も国際的視野を必要とするものであり、また、いずれも「自分と異なるものを受け入れ、理解する」という精神が要求される仕事である点、根っこではつながりがあり、私にとってはそれほど違いのあるものではなかった。青春時代の21年間の体験が後半の仕事人生に役立ったことから、この19年間は熟年時代といえる。

2.帰国子女教育
  私が、国際的な活動の締めくくりとして携わった帰国子女教育ついて概要を述べ、わが国の教育が抱える問題を考えてみたい。 私は、1980年4月、同志社国際高等学校創立に参加、以後、定年で退職する1999年3月まで帰国子女教育に関わった。帰国子女教育誕生の経緯、わが国教育の国際化に対する帰国子女教育の役割などについて述べたい。

1)帰国子女教育誕生の経緯
  帰国子女教育は、わが国経済の国際化の産物といえる。1971年のニクソンショックは、それまで為替の固定相場制に守られていたわが国経済を、自由競争の舞台に登場させた。円安という有利な輸出条件が無くなり、変動相場制の中で価格競争に勝ち抜かねば輸出市場を確保し続けることは不可能となった。さらに、1973年と1979年の二度にわたって起こった石油ショックは、大量の石油を安く買って商品を生産してきたわが国の製造業に大きな打撃を与えた。円安、原料高は、物価高、労働賃金の高騰を招き、結果としてわが国の工業製品の輸出競争力を弱めることとなった。その対策として、製造業の多くは、安い賃金を求めて、また、為替リスクや貿易摩擦を避けるために、これまでの輸出市場に生産拠点を移す多国籍化を加速させた。これが海外勤務者の増加、結果として帰国子女の増加の原因となったのである。
  製造業の生産拠点の海外シフトによって、海外在留邦人数、帯同子女数が増加し、それに伴い、1970年の後半に入ると帰国子女数も増加傾向を示し始めた。帰国子女数の推移をみると、1971年に1,544名、1977年5,774名、同志社国際高等学校が設立された1980年には7,504名となり、増加する帰国子女への対応の必要性が教育現場に出てきた。わが国の教育現場は、異文化の中で育ち、教育を受けた帰国子女が適応するにはあまりにも保守的・閉鎖的であり、学習面(教育内容、教育方法)、学校生活面(学校文化)の変革だけでなく、教職員と児童・生徒の心の国際化が必要となった。

2)帰国子女教育とは
  帰国子女を教育するために、学習面では、生徒の個性を尊重する習熟度別授業、学習者が相互に長所を生かし合い、短所を補い合う協学型授業、特性(外国語力、異文化体験から得た特性)維持・伸長型授業、問題解決型授業、帰国子女の複眼思考・行動を生かす授業、そして絶対評価制が、従来の画一的カリキュラム、画一的な授業、集団主義授業、教師の一方通行型授業、知識注入型授業、そして相対評価制に代わって要求され、学校生活面では、自分と異なるものを排除し、自分の価値観を押し付ける同化型の指導を改め、帰国子女が海外で習得した文化や習慣を尊重する指導が必要となった。さらに、何にも増して重要なことだが、自分と異なった価値観を受容する教職員と児童・生徒の心の国際化が求められた。上述の学習面、学校生活面の変革と教職員・児童・生徒の意識改革は、帰国子女教育推進に不可欠な条件である。この意味で帰国子女教育は、保守的・閉鎖的なわが国の教育を国際化するための起爆剤といえる。

3.おわりに
  仕事人生の40年を振り返ると、貿易という仕事を通して多くの外国の人に接し、外国の人のものの考え方、行動様式を知った。また、帰国子女教育を通して、わが国と外国との人づくりの違いを学んだ。国際社会とのつながりの中で仕事人生を送れたのは非常に幸せなことだと思っている。しかし、反省点を挙げれば、もう少し「コミュニケーション能力」を着けておければよかったということである。理由は、「コミュニケーション能力」を持っておれば、もっとスムーズに商談をまとめることができたと思うし、もっと多くの外国の友人を持つことができただろうと思うからである。自分にその能力が不足していたのは当然のこと努力不足によるものだが、「コミュニケーション能力」を備えた帰国子女の教育暦を調べてみて、かれらが受けた海外在住国の教育が影響していることを知り、人づくりにとって教育がいかに大切かを認識した。 「コミュニケーション能力」を身に着けるには、「プレゼンテーション能力」と「異文化理解能力」の二つの能力を養わねばならないが、とりわけ日本人に不足している能力は「プレゼンテーション能力」で、それは、日本人に「個の確立」が欠如していることと「語学力」の不足によるものと思っている。
  仕事人生40年を終えるに当たり、改めて「自から立ち、自から治むるの人づくり」、「語学力の強化」に力を入れる同志社教育に期待するところ大である。
以上  
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