私と国際交流    桑田泰弘氏


八田学長、EES東京OB会長の桑田(左)から募金を受取る(同会は ニューイングランドの教会で日本で学校を創ると情熱溢れる演説をされた。 新島先生に感銘を受け帰りの汽車賃2ドルを献金して歩いて家路に着いた農夫からヒントを得、募金を開始しました。―ESS東京OB会HPより)
 

   プロフィール

1942年 京都生まれ。1965年 同志社大学文学部文化史学科西洋史専攻卒業
1967年 米国オレゴン大学ジャーナリズム学部卒業。
1967年平凡出版入社、翌年 退社
1968年 本田技研工業入社、外国部に配属される。海外宣伝を一年、中近東課を三年間担当
1972年〜1979年 ホンダトレーディング設立し出向
1980年〜1982年 本田技研工業 アジア営業部に配属
1983年〜1986年 Honda Phirippines Inc.社長
1987年〜1990年 本田技研工業 中南米営業部 課長
1991年〜1996年 本田技研工業 汎用事業部 海外営業部長
1997年〜2002年 本田技研工業欧州本部 Honda Moscow 事務所 首席代表


フランスの都パリは心うきうきする楽しい町だ。ここ五年ほどこの町を拠点にして欧州鉄道の旅を楽しんでいる。パリの定宿の主人ムッシュ.ベルナール一家とは七年のお付き合いだ。強烈なる個人主義が特性と思われているフランス人だが全くそんな見方が出てこない。人間対人間の心の通いあいがあれば国籍の違いなど全く問題とは思えない。

パリの東駅から4時間でドイツのケルンに着く、モンパルナス駅からベルギーのブラッセルまで1時間20分だ。イタリアのトリノまではリヨン駅から5時間半。パリの町と同様にそれぞれの駅は色々な国々から来た人達で溢れかえる。国籍、肌の色、言葉の違いは関係なく尋ねる事があれば真剣に聞いてくるし、こちらも聞き返す。待ち時間があればカフェに入り一杯のコーヒーを味わいながら隣のテーブルの御夫婦と言葉を交わす。ある時はカメルーンからの出稼ぎであったりまたある時はオーストラリアからの観光客だったりする。

たった数時間で他国の町に着くが全く外国に来たとの気分が出てこない。欧州国パリ市、ブラッセル市、ケルン市、トリノ市と言った位置付けになるのだろうか。人模様はどこへ行ってもパリと同じようなモザイク画に見える。国際交流と言う言葉は日本のような島国独特の表現だと思える。陸続きの国々では隣国との交流が生活の舞台になっており意識しなくてもそこに存在しているのだ。僕もいつの間にかどこの国に行っても、居ても人間対人間で国を意識することなくお付き合いが出来るようになった。

英語と言う世界で広範に使われている言葉に興味を持ち、勉強し、研鑽して来た事がそんな意識をもたらしてくれたのだと実感している。英語を教科としてではなく言葉として最初に使ったのは中学二年の時に始めたハワイの日系人との文通であった。高校時代はカトリック教会で神父さんの聖書の話を聞きながら一時間の英語会話に精を出した。同志社大学では米国史を学びながら英語研究会(ESS)活動に専念した。フォーリナー ハントと名ずけられた京都の名所での外国人との会話活動は今でも忘れられない思い出である。日本歴史の勉強の大切さを教えられたのもこの時期であった。ここまでを僕の英語研鑽の基礎段階と考えている。

英語を駆使する応用段階はやはりオレゴン大学に留学した2年間でありそれ以降の本田技研工業での定年退職までの34年間海外営業に従事した期間である。このHondaでのビジネス経験を通し英語をほぼ完全に自分の言葉にすることが出来たと思う。特に忘れがたき思い出はフィリピンのマニラに4年間、ロシアはモスクワに6年間Hondaの経営者として駐在した事である。経営上の問題、従業員のリストラ、市場占拠率をあげる為の営業マンへの叱咤激励、資金繰り対策等々現地の人達を我が社の社員として共に働いた合計10年間の経験はまさに人間対人間の修羅場の実践であり、喜びの共有であり、人間の絆の確認でした。フィリピン人、ロシア人と言った国の違いなど全く意識しない世界を経験した事は今や我が人生の宝であります。

今日の世界はIT時代であり世界中の情報はパソコンのキーボード叩けば一瞬にして手元に入ります。超大型航空機も開発され遠距離飛行の時間も短縮されました。経済力を有する国が援助をするのは当たり前の時代です。国際結婚も大幅に増加しています。外国がほんの川向こうにあると思える時代に我々は生きています。益々人間対人間のお付き合いと言う観念が前面に飛び出してくる様相がありそれが国際交流の根幹を成す意識になるでしょう。

  (「同志社大学職員英語クラブニュース トピックス 第4号」(2007年5月31日)から転載、加筆)

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